展覧会の絵 3:第2プロムナード(1)

 ぼけぼけした顔を見せてくる田山は、自分の出番が来ても同じ調子だ。気の抜けたような笑顔で、楽器を構えてしまう。重みなんて全く感じさせないで、ただひとつの抵抗感も見せずに、ふぅっと、息を出すことが出来る。
「ほら、ダメだよ祐介。また力が入ってる」
 レッスンに行くと、僕は必ず先生に言われる。緊張しいの僕は、どうしても肩からガチガチになってしまう。肩が固まってしまえば息など吸えるわけがない。息が吸えなければ音が上手く出るはずもない。結果として唇も不安定なまま、不安定な音を出してしまう。一度そんな音が出てしまえば……あとは予想通り。ガタガタになる。
 もっとも、これは僕のように度胸がないからかもしれない。ちょっと体が強張って音が上手くいかなくてもすぐに立て直すことが出来る人もいる。というか、そうあらねばならない。たった一回の失敗でボロボロになってはとても使いものにならないだろう。
 長くなったが、演奏で一番大事で難しいのは『リラックス』であり、技術的なものは練習次第でいくらでもなんとか出来ると僕は考えていた。
 グノームの練習は今日のところは軽く済ませたようで、団員は次の曲の準備に移っている。指揮の小寺さんも頷きながら総譜を見つめていた。少しのざわめきが場を支配し、棒がはためくと一気に静まり返る。この瞬間が好きな指揮者は多い。その、真っ直ぐな指揮棒は小寺さんの視線と共に僕の隣へ注がれた。
 先ほどまでと、変わらない、ひょうひょうとした田山の姿。マウスピースと、唇が触れる。指揮棒が、ふわりと持ち上がる。

 緑でいっぱいになった丘の上に、角笛の音が響いた。
 ホルンにしては低めの音域(つまり、僕が得意とする音域のことだが)で、プロムナードのメロディが紡がれた。冒頭のプロムナードと異なり、スラーが多く、ゆったりと響く。トランペットのそれが力強く踏み出した音であるのに対して、ホルンのこれは楽しい思い出を回想するかのような流れだ。
 実音F、つまり『ファ』からの変イ長調。譜面の指示では一小節毎につけられたスラーだが、二小節単位のフレーズゆえに、田山はほんのわずかな隙間だけを許して、歌った。
 丘の上の角笛に、色とりどりの花びらが舞い散る。追いかけるように、木管がこだまを返してくる。中低音と高音のバランスが絶妙で、本当にどこか遠くへ行ってしまった気になった。太陽が沈みはじめ、夕暮れの訪れと共に風も止むだろう。しん、と静まった丘に、その日の終わりを知らすような角笛の音が低く低く発生した。
 低い音は、彼らにとってはしばらくの時間を置いて――けれども人間にとってはほんの一瞬の間のうちに、呼応する。弦楽器のピッチカートがポツンと音を出す。
「ははっ」
 ピッチカートをもって第二プロムナードは終了する。両腕を上げたまま――つまり本来ならばまだ曲は終わっていないということになるが――小寺さんは微笑を漏らした。その理由はオーケストラ全体も知っていることだったので、誰ともなく苦笑する。最後のピッチカートが、やや揃っていなかったから。たった三音。今日の人数でもぴったり揃わないのはなかなか厳しい。もっとも、これからの練習でいくらでもどうにかなるし、実際そうやってきたので今のところ悲壮感は全く感じられなかった。
「よし」
 第一プロムナードとグノームの曲間が短かったように、この第二プロムナードと次の曲も本来ならば間がないのだが、そこは練習ということで小寺さんの指揮棒は一旦降りた。それに伴い、弦楽器が構えをとく。
 不思議なもので、その行動で場の空気が変わるのだ。笑いがこぼれていたというのに、やはり違う。指揮者の支配する空間というものがあるのかもしれない。ちなみに僕は出番がないので最初から最後まで楽器待機。組曲ではこういうことも多い。
 僕の席からはみんなの様子をほぼ見渡すことが出来る。譜面に書き込みをするもの、舌を出して笑いあう者、昨夜遅かったのかうたたねをしかける人……様々だ。
 合奏練習をする際に間借りする学校の食堂は、まだ四月とはいえ、風が通る。花粉の影響もあり、窓は閉め切っているが、人口密度のせいもあってかあまり暖かくはならなかった。硬い床は、誰かの足音を伝えるにはじゅうぶんすぎて、今も遅刻したメンバーが駆けてくるのを認識できる。楽団としては、人数が少ないことは大問題だと思う。でも僕はなんとなくだけどこういう空気が結構好きで、なんとなしにテンションが上がっていた。単純に、第二プロムナードの雰囲気が好きだからかもしれない。

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