展覧会の絵 10:サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ(1)

 組曲の面白いところは、作者の構成が見て取れることだと思う。僕はそんなセンスがないから、ただなんとなく並べるだけで精いっぱいだ。これまでも、所謂レールのような人生を過ごしていて……決してそれを嫌だと思ったことは無いし、その『一般的な』環境に感謝しているくらいだが、そんなものだからこういった発想もないのかななどと時々思う。
 僕はアマチュアオーケストラのホルン吹きで、しかしそれ以上に会社に勤めるサラリーマンだ。大学就職課のガイダンスに従って就職活動を済ませたに過ぎない、ただの一人の男。それはひどく幸せなことなのだけれど、多分そんな僕はちょっと足を踏み外したらもう戻ってくることなんてできないような気がする。
 次の曲が始まって、低弦楽器への自然に耳を傾けた。ちょうど視界に入ってきたのはコントラバスを奏でる同期の女の子。マダムまでとはいかないもののやや小柄な遠田さんが構えるそれは、余計に格好良い。
 弓が、ゆったりとダウンからアップ。そして、やや動きを持って上昇系のアップ、すぐさまダウン。まるで大柄な男でもこちらに向かってきそうな……そんな偉そうな空気がそこに生まれた。
「ふふん」
 声をだしたらきっとそんなだろう。顎鬚を蓄えて、自身の成功を誇るように歩くユダヤ人。彼の名は、サミュエル・ゴールデンベルク。ハルトマンの描いた裕福なユダヤ人の絵だ。
 二回ほどのリピートの後、弱音器を付けたトランペットによって嘆きのおとが混ざってくる。トランペットの上を向いたアサガオに埋め込まれた金属物。本来はもっと出せる声が、擦れた苦しさとなって現れる。裕福な人の裏にある、貧困民。悲しいかな、彼の身に風が吹き、堪える。
 トランペットによる悲鳴を再び打ち消すように、サミュエルが現れた。同じ年齢に見える彼らだが、肌と髪の毛を比較すれば貧困であるシュミュイレの方がずっと老けて見えた。
 
 サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレというこの曲は、二枚の絵によって成り立っている。ハルトマンがこのような名前を付けたかは知らない。聞いたところではムソルグスキーの創作だとも言っていたような気がする。音楽なんて殆どインスピレーションと創作だ。今こうして僕がつらつらと曲に対して述べているのだって創作だし、誰にもそれをとがめることはできない。
 場面転換がされていたそれまでと異なり、一歩、一歩と低弦とトランペットが絡み合う。さしずめ、シュミイレの前をサミュエルが横切ったのか。
「頼む、金を、貸してくれ」
「またお前か。お前に貸す金はない」
「そういわないでくれ。頼む……もう、パンを食べることすらできない」
 シュミイレの懇願もサミュエルは聞き入れない。町一番の高利貸であっても誰彼構わず手を差し伸べるわけではないのかもしれない。トランペットの響きが一層高くなった。明るいはずの音域なのに、短調の響きが場にこだまする。
 無残にもサミュエルは去っていく。彼の確固たるゆるぎない思いが強く振り下ろされる弓に投影されて、最後を凪いだ。

  「うん、いい感じ。ラッパ上手いね。あ、でもホルンとファゴット遅れるから。ラッパを停滞させないように注意して」
 思いにふけっていたら突然怒られた。ええと、僕の出番は……シュミイレの嘆きのバック。さっきは風と表現したアレのことだ。
「どうしても音が低いですからね、ここは。レガートですけど、はっきりと音を突いてやらないと音の立ち上がりが遅くなっちゃいますから、気を付けましょう」
 譜面台にひっかけてある鉛筆を手に取り、田山が僕の譜面にチェックを入れる。場所を確認して、その指示を自分で書き込んだ。田山も自身の譜面に軽くレ点を入れて、それがきっと注意というサインなのだろう。
「ここのトランペット、絶対もたつくか走るかですから。なかなか合わせるの難しいですけどね。僕たちはどうしても立ち上がり遅くなっちゃいますから」
 たとえばトランペットやトロンボーンは別が正面を向いている。吹き込んだ息が管を通っても出てくるのは正面。ホルンは管の長さがチューバ並みである上に音域は三オクターブはザラで、しかもそのベルは後ろを向いている。息を吹き込んでから音が出るまでのタイムラグに、ベルから発した音が壁に反射して指揮者に届くまでの時間にも若干のずれが生じる。ギネスブックに載るほど難しいと言われている楽器である所以はそこにもある。
 だからと言って嫌いだとかそういうことはない。温かみのある音。表現力豊かな楽器。
 僕がホルンを好きなように、きっとみんな愛着があるに違いない。その分、他の誰かを否定したりもしない。
 たとえ普通のサラリーマンだとしても、こういう思いを抱ける自分が幸せだと実感する。ユダヤ人は……貧富の差に苦しめられて、芸術を楽しむ余裕はなかったかもしれない。なあ、シュミイレ。そんなに嘆くなよ。僕は届かないその曲に向かって胸中でつぶやいた。

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