展覧会の絵 11:リモージュの市場(1)

「はいはい、次いくよー」
 若きコンサートマスターがざわつく団員を一括した。OBオーケストラの方は現役の時と異なりそんなにすぐに代替わりするわけではないが、つい一昨年前任者コンサート・ミストレスが引退し今の河田に変更になった。僕よりも四つか五つくらい年下の彼は、赤池に負けず劣らずベクトルの違う変人で、しかしバイオリンの腕は確かである。
 どうやら赤池の高校時代の後輩らしく、二人がよく喋っているのをみた。彼がコンマスに就任して、赤池は時々OBオケに顔を出すようになった。
「やっぱり、いい人の隣で演奏するのは楽しいですから」
 僕にとって赤池は至高の存在である。大げさだが、彼の奏でる音やオーケストラ全体を包み込む能力は本当に高いと思う。河田も決してダメではないが、まだどこか若い……なんて、僕が偉そうに言えた立場じゃないんだけど。
 休憩を挟んだあとはやはり準備が遅れる。コンマスの声の後、鳴り響くオーボエのチューニングA。実音で言うところのラの音で全体の音を合わせる。
 今日は天気がいい。楽器の鳴りも良い。
「じゃ、続き。もう時間ないから、通すだけで」
 小寺さんの棒が揺れる。空振り二回。テンポは、速い。
 オーケストラ全体で、騒がしい豆粒の音を奏でた。わぁぁぁ、とまるでマルシェの開幕のような、そんな表現で始まるのは、『リモージュの市場』。第四プロムナードから雛鳥の踊り、サミュエル、そしてこのリモージュと変化は目まぐるしい。
 美しく踊るバイオリン。フランスの街並みが弦楽器ならば、そこをサクサクと歩くのが木管楽器。フルートとオーボエによる軽やかな舞いが、せわしなく動く。
 ハルトマンのペンがサッと動けば、ムソルグスキーが目を細めてそれを見た。

   本来は、この曲が始まる前に第五プロムナードがあったのだが、このラヴェル編曲版では消えてしまっていた。その意図はわからない。絵で表現するならば、このリモージュはスケッチ。しっかりとした絵画ではなく、パリのリモージュで華やかな市場をハルトマンはスケッチに起こした。
 僕の想像にすぎないけれど、この異色のスケッチ展示は美術館であれば特別展示になるのかな。たとえば小さな個室だったり、ちょっとしたブレイクポイントだったり。それであればプロムナードの意味することも分からないでもない。

   弦楽器と木管楽器の軽やかな動きに、ところどころで金打楽器によるパフォーマンスが加わる。市場といえば買い物、買い物と言えばいつの時代も女性が主役だ。楽しそうな、それは先のユダヤ人の絵からうんと離れた華やかな空間でお喋りを楽しむ女性たち。
「あっちの店の方が安いんじゃない?」
「ねえねえ、もう少しオマケしてよ」
 そんな声すら聞こえてきそうだ。騒がしく活気ある雰囲気がスピーディな曲の流れで表現される。
 ふっと、それまで異なった動きをしていた各楽器たちが、指揮者の棒に沿って同時にブレスをとる。小節にしてたったの二小節。全体が場を包み込むのは、さしずめ時間限定セールだろうか。
 その叫びが終われば再びその場は静寂を取り戻し、いつもと変わらないリモージュの市場がそこに並んだ。演奏者の顔を覗く。誰もがうっとりとした表情を浮かべて、指揮者と一体になって場が流れていく。
 ムソルグスキーは、フランスを知らない。友人のスケッチを見て、様々な絵を見て、何を感じたのだろう。女性たちがお喋りをしながら買い物を楽しむ、美しいフランスの街並み。彼にとってそれが理想であり、幸せであるのかもしれなかった。
 さあ、セールもいよいよ終盤だ。
 僕の隣で、田山が大きく息を吸い込んだ。出てきた音。それまで以上の小刻みに動く舌と左手の指。木管楽器なんて目じゃない。弦楽器も一丸となって弓を動かすが、音の大きさと衝撃は田山が上だ。
 ふと見上げる。小寺さんが笑っている。田山を見る、首から上が真っ赤だ。二回ほどの下降音形ののち、そのまま天にでも上りそうな勢いで音が上がっていった。
「すぐ、次に行くから!」
 小寺さんが左手をトロンボーンへと向ける。それはつまり、合格という合図。
 マウスピースから唇を離して、田山はいつもと変わらないへらへらとした顔をこちらに向けた。
「超、楽しいです」
 こいつは、マジですごい。

BACK  ||  INDEX  ||  NEXT

Copyrights (c) Arisucha All right reserved.