展覧会の絵 8:第4プロムナード(1)

 見慣れているはずの練習場の雰囲気も、どこか違って見えた。
 休憩をとっていないわけではないし、いつも通り緊張感の足りない合奏風景。時間が経つにつれ、バイオリンのメンバーも増えてきた。指揮者の小寺さんも次第に機嫌良くなっていく。けれども音のボリュームが足りないのは事実だ。練習を欠席してしまうことはしょうがない。僕にだって誰にだって用事はある。毎週毎週こう人がいないとモチベーションが落ちてしまう気持ちも、わかる。
『しょうがないさ』
 学生時代、赤池は不満をあからさまにはしなかった。不服に思っていることなど見て取れたのだが、それでも文句らしい文句も言ったことはない。代わりに、陰でいろいろ言われることはあった。それはとてもつらいことだけど、あいつはそれでもいやな顔を表面に出さなかった。
 あの頃、僕たちは日中は学問にはげみ、アフターは遊びやアルバイト、そしてサークル活動に精を出す。大学のサークル活動なんて適当なものだが、管弦楽団は年に二回の演奏会があるせいか出欠にも運動部並みの厳しさを持っている。週に三回の練習は正直最も楽しい時間を奪っていったが、誰もが好きでやっている音楽だったからやってこれた。練習はほぼ毎日実施していたわけだし。
 確かに社会人になって、楽器にかける時間は減ってしまった。
 僕のそんな気持ちを反映したのか、いやいや偶然なのだが、第四プロムナードは木管によって寂しげに奏でられる。
 第一は展覧会を誇らしく歩くように、第二は胸いっぱいに広がる余裕をもって、思い出に浸るように。第三は様々な絵に触れたことで自分の感情が膨らんだ、そんな楽しさと明るさを持っている……はずが、次の絵に触れたことでその気持ちにも蓋がかかる。ムソルグスキーの気持ちだったら、そんなところだろうか。
 そうして個展を回ってしばらくして、悲しい気持ちにだってなるはずなんだ。これは、友人の遺作展なのだから。
 上昇系のフレーズが、レガートと音階によって色を変える。胸いっぱいに広がる涙。
 木管にかぶさるゆったりとした低音は、これ以上足を進めたくないというムソルグスキーのことかもしれない。
 でも、自分が見なかったらどうするんだ、と。自身の心に言い聞かせるように、次への部屋の扉を開けるだろう。物理的にも精神的にも重い扉。支えてくれる友人はもういない。

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