唐突だが、僕はリンゴが好きである。
しばしば梨と比較されて「どっちが好きー?」と聞かれることが多いだろうが、そう言われれば僕は迷わずリンゴを選ぶだろう。赤く可愛らしいフォルムやたまにまだ緑色の未熟なそいつらは可愛い……とか言い出したら僕が変態のようだ。やめておこう。
黄色くなったり柔らかかったりするので梨派が多い中、僕はいつもリンゴを食べる。
「リンゴの皮は食べても良いのか。科学的に証明しようと思うんだけど」
僕がどうしてリンゴの話をしたか。それもこれも唐突に言ってくる『こいつ』のせいだ。
「冬場はコタツにミカンが定番だろ。なんでいきなりリンゴなんだよ」
好きだからいいけど。
暖房器具なんてないので震える腕をコタツからひょいっとだして、僕はテーブルの上で綺麗なウサギを掴んだ。そしてそいつもひょいっと口の中へ。うむ、美味。
ウサギの集団の更に奥には、ちょうど向かい合わせの配置で同級生の赤池が笑顔で包丁を持っていた。傍らにはカゴ一杯のリンゴの山。
「そもそもリンゴってこの時期なのか?」
「秋リンゴだってあるのだ。というか大体、この消費社会では野菜の時期など関係ないだろう、佐々木君」
「まぁねぇ……」
スーパーで野菜が無いという光景なんてまず無いだろう。そう考えればこの寒空真っただ中の十二月にリンゴが大量にあってもおかしくはない。佐々木、つまり僕は相変わらず理屈をこねる変人同級生赤池に適当に返事するだけだった。
「つーかお前、この時期にそんなリンゴの皮むきとか、どうなの? 手とか切ったらどうするんだよ」
「それは私を心配してくれているということかね佐々木君。とても嬉しいが私がそんなことをするとでも思いかい?」
「いやまぁ思わないけど……。万が一ってあるじゃん。この間の秋のアンサンブルで今泉先輩が指切ったって話も聞いたし」
あと二週間もしないうちに本番なんだ。赤池は変人だけれどバイオリンの腕前は超一流。最上級生扱いになる来年はコンサートマスターになるだろう。そんな彼がここで指を切ったとかいったら洒落にならない。
「ふむ。じゃあ剥きかけのこれはどうしましょうか」
赤池が近くにあった演奏会案内のチラシ上にそいつを置いた。部室は便利なもので、ごちゃごちゃしているけどコタツから出る必要なくいろんなものに手が伸びる。彼はそのままティッシュで包丁を綺麗に拭き取って、ケースにしまった。後で洗うだろう。とりあえずつっこむのはやめておいた。
その間、口の中の甘さが既に消えかかっていた僕はまだ丸いリンゴを皮ごとかじる。しゃり、という滑らかな音が静かな部室に響くと、それはまるで打楽器の奏でる音のようだ。おお、と赤池がこっちを見る。
「おま、バカ。包丁から目離すんじゃねえ!」
「もうしまってありますから大丈夫ですよ。しかし佐々木君はあれですね。私が科学的証明をする前に皮ごと食べてしまわれたのですか」
「つーか、さっきからウサギリンゴも皮ごと食ってたけど」
「なんと!」
どうにもこういう態度が面白いと思う。僕は反対の手でカゴのなかからまだ完全体のリンゴを一つ掴む。行動が不可解なのだろう。赤池は何も言わない。
「ほれ。バーン!」
僕はリンゴを赤池の頭上にちょこんと載せた。そうしてそのまま親指と人差し指を立てて、ピストルのカタチを作る。そうして、一弾、発射!
そこで赤池も僕が何を意図したか分かったようだ。にやっと笑う。そして、こいつの目が演奏家の瞳に変わる。
「ウィリアム・テル、ですね?」
僕もそれに笑顔で答えた。
「がんばろうね、ささきちん」
舞台裏で言ってくるのは僕と同学年のホルン吹き。小柄な体だけれど立ち振る舞いがなぜだか年上っぽいため、あだ名は『マダム』。本当の名前は奥山舞と言う。
「うん。わかってるよ」
精一杯の声で返したつもりだった。マダム奥山は僕の様子が不満なのか、中途半端な笑顔を向けてくる。たのむからそんな顔しないでくれ、自分が状況を一番わかっているから。
通常、大学のアマチュアオーケストラで管楽器は一学年一人だ。だってそうだろう、考えてほしい。交響曲一曲に管楽器一パートに必要な人数は平均して二、三人である。三曲構成の演奏会を年に一回やるとしたらパートは大体六通り。人数が多くなってしまうと演奏する機会はグンと減ってしまう。よって妥当な人数であると思う。
その特に例外がホルンだ。ホルンは交響曲一曲で四パート必要となる。同様の構成で演奏会をするならば一回につき十二パート。もし三人しかいなければ助っ人を必要としてしまう。四人ですらぎりぎりだ。
そんなわけで現在ホルンパートには五人の団員が所属していた。三年生の橋元先輩、二年生の僕とマダム。一年生に森さんと野村。去年畑山先輩は無事引退したため現在はこのメンバーだ。
橋元先輩は神レベルの上手さだし、後輩二人も中学からホルン経験をしているので実力は折り紙付き。マダムは高校時代トランペットを吹いていたのでホルンでは高音域を得意としていた。
「ウィリアム・テル。ファンファーレめいっぱい練習したもんね!」
マダム奥山ががっしりと拳をつくった。
そう、これから冬の演奏会の本番なのである。曲目はウィリアム・テル序曲、モルダウ、そしてフランクの交響曲。
幕が開いた。
ホルンは四人が前二人後ろ二人に分かれて座る。僕は後列右の席に腰掛ける。左側には奥山。彼女が楽器を吹くとそのベルは僕の方に向くわけだから、当然音がはっきり聞こえ易い配置だ。
普通管楽器は二、三にんがそれぞれ和音を構成する。同じ動きで違う音を奏で、高音と低音を担当するというのがわりと標準的だ。
では四人いるホルンはどうわかれるのか。順に一、二、三、四、と番号をふってみれば分かり易い。一と二、三と四がそれぞれペアになり、高音と低音を担当するのである。この二つのグループはまったく違う動きをしているときもあれば同じ動きをしていることもあって、その場合は一と三、二と四で同じ音を吹いていたりもする。
そんなわけで、四番である僕は三番である奥山の右に陣取り、彼女の音に合わせながら吹くというわけなのである。
舞台は夜だ。次の日の天気はわからない。
アルプスの山々はまだ薄暗い。そんな風景をチェロとコントラバスが奏でている。
全体的に空は雲があるようだった。ふと、その隙間から眩しい光が差し込んでくる。僕は思わず目を瞑った。途端、そこにいた指揮者の姿は見えなくなった。
光の正体は、太陽だった。目をそちらに奪われたけれど、耳にはどこかで鳴る太鼓の音が聞こえてくる。一体なんだろう。
風もない、穏やかな天気。真っ白な衣類を干したらきっと気分がよい。
チェロの音が一層高く響いた。
ふと。気のせいだと思っていた太鼓の音が再び聞こえた。もう一度、尋ねる。「誰だ?」
それまでの天気が一気に変貌した。女将は洗濯物を取り込む。雲は明け方だからではなかった。太鼓の音は、遠くで響いていた雷だ!
クラリネットがアルペジオを奏でると、辺りはたちまち闇につつまれるではないか。
「助けてくれ!」
多分誰かが言ったんだと思う。でも僕にも誰にも彼を助ける事は出来ない。トロンボーンの音は誰も敵わない。オーケストラ全体が嵐を呼び起こす。強風と暴風雨。空が明るいだけに非常に不気味な光景だと思う。明るい音で奏でられる嵐はそういう意味合いで非常に奇妙だ。
だから、負けないで。
僕は楽器を吹く事で彼に伝えた。辛い嵐は永遠に続くわけじゃないよ。
ほら。
聞こえるだろうか。コーラングレとフルートの美しい調べが。
誰もが。きっと映画を見ていたとしたらお客が、俳優が、音楽家が。きっと監督さえも予想しなかったんじゃないかと思えるくらいの静けさ。荒らしは本当に一瞬だった。
再びアルプスの優雅な自然が動物を取り囲む。
女将は干し損ねた衣類を再び外にだすだろう。男は、ぐしゃぐしゃになった泥まみれの体で、それでも家に戻ってくるだろう。
家の中でじっとしていた子供は外に出て飛び跳ねるだろう。
コーラングレを吹くのは先輩だったが、フルートは同級生が吹いていた。佐藤さんは本当に上手だと僕は心から尊敬する。
少しだけ現実に戻ってしまうのは、情景が平和な証拠。
彼らと指揮者だけがスポットライトに当たったように、彼らだけ舞台は木造じゃなく、草むらだったと僕は思う。
ふと、背中を叩かれた。
「なに?」
声には出さない。そこには、さっきの子供が居た。裾が汚れているのを見ると、既に外で遊んだ後なのだろう。
「ねえ、今日はどうしてこんなに幸せか知ってる?」
ジブリ映画に出てくるような笑顔で、彼女が歯を見せてくる。
「知ってるよ」
この音は、中上先輩のトランペットだ!
ぐあぁぁん、と響くトランペット。相変わらずオイシいところを持っていくなぁ。
でも、僕たちもそれに続かないと。奥山と並んで、ファンファーレを続ける。すぐさま打楽器が僕の心を音でかき消していく。
「あのね、みんな笑顔だよ」
フォローのように耳元で囁いた少女はそのまま観客席の方に歩いて行った。演奏中お客さんを普段は見ないのだけれど、このときだけは視界に彼らの笑顔を見る事が出来た。
有名なフレーズ。スイス独立軍の行進曲。
ファンファーレで盛大に町中に祝いのメロディーが流れてくる。こうしてはいられない。
女将は洗濯物を放り出し、男は汚れたまま帽子を掴んで飛び出した。
既に街は踊りの渦だ。
弦楽器による軽やかなメロディーに沿ってステップを踏む。
遠くに消えていくファンファーレ。それでも嬉しい事には変わりない。ヤギの乳から搾り取られたミルクが宙を舞う。誰かがかぶったって!? そんなこと知るもんか。さぁ、飲もう騒ごう歌おう踊ろう。
ティンパニの音が、合図。
木管、金管、弦の順で幕が下りた!
ざあああああああああっ
辺りに響く拍手。演奏自体はきっと大成功だ。演奏自体は。
指揮者の先生が、ソリストを立たせる。冒頭を担当したチェロとコントラバス。それからコーラングレとフルートの二人。嵐の首謀者であるトロンボーンと、軽快なファンファーレを奏でたトランペット。
僕らに視線と手のひらが差し出された。
前列に座る後輩二人と、奥山が腰を浮かせる。少し遅れて僕も立ち上がった。
本当は、立ちたくなかった。
再び大きな拍手を団員全員でもらい、舞台を後にする。
向かえてくれたのはこの曲に参加していなかった橋元先輩だ。
「おつかれ」
彼は僕に複雑そうな顔でそう言ってきた。先輩は人をどうこう言う事は決してしない。だから誰も褒めなければ、責める事もしない。ある意味音楽に純粋に立ち会っていると思う。
バイオリンは残念ながら逆の入り口だったので、赤池と顔を会わす事はなかった。次の曲が始まるんだから、そんなに時間もないのだから。
次の曲は担当ではない僕は、舞台傍らに楽器を置くことにする。休憩中ではない。しんと静まり返ったホールには少しの足音と少しのざわめきと咳をする音だけが残っている。音を立てないようにそっと楽器を鎮座させ、僕は楽屋に向かった。
「ちくしょう」
誰もいないそこで僕は壁を殴りつけた。僕の力じゃ双方怪我はしない。もう一度、拳を壁に力強くあてた。
ファンファーレの、Eの音。
ピッチが低かった。
一人だけ、音が浮いた。
中上先輩ともう一人のトランペットと、それから。
さっき見た奥山の笑顔が浮かんだ。
また、拳を痛めつけた。
音が外れたわけじゃない。でも、確かに低かった僕の音。決して出せない音じゃないのに、それは音楽をつくるという意味で音になれなかった悲しいEの音。
「ちくしょう……」
誰も責めないから、余計にタチが悪いんだ。
僕は、音が上がれば上がる程、音を鳴らせなくなる。
だから、ソロは決して吹けない。
だから、パートトップを吹く事は出来ない。
奥山の顔がまた脳裏に浮かんだ。
僕はいつだって。
きっと僕はテルの息子を助ける事は出来ないだろう。
リンゴは無惨にも無傷のままで。無関係な地面に矢を射るだろう。
考えたら無性に笑いがこみ上げて来て、リンゴをめちゃめちゃに食べてしまいたいと思った。