悠長に考えていたら全て持ってかれた。
胸を指すような弦楽器による運命の主題。続いてホルンによる同じメロディー。たっぷりとゆっくりとその有名なメロディーが弾丸のように会場を貫いた。
聴くもの全てを覆い尽くすように、素早いメロディが続く。背後から、正面から、音は早いのに雰囲気はゆっくりしている。
ぴたっとその気配は消えたかと思いきや、第一ホルンによってその期待は裏切られた。これでもかという位に投げかけてくる悲壮感。
吹いているのは僕の二個上である、畑山先輩という人だ。彼は本当にこういう表現が上手だ。会場を全て持ってくだけの実力と音量。
迫り来る第二主題と、ホルンが打つ運命の動機である第一主題。ざぁぁぁ、と鳥肌が立つというのはこのようなことをいうのだろう。
真っ暗な小さな部屋で、誰かが来るのだ。それが無くなった、もう安心だと思うとそのギャップに人は旋律を覚える。
僕は本当の所この曲がかわいそうで仕方が無い。
誰もが「運命」=
現に今耳に入ってくる第二楽章のなんと美しいことだろう。表裏一体、紙一重。人間でいうところの表と裏は些細なきっかけで変化するのだ。そりゃ当然だ。だって同じ人物なんだから。
このメロディーが美しく、泣き出すような自然を思い浮かべるのはきっとその曲調によるんだろう。
畑山先輩と岡田先輩がスケルツォを奏でた。
胸がじん、と鳴り、観客席がぴりりとするのがわかった。
僕はこの三楽章の冒頭が一番好きだった。降りてくる音階、美しい二本のホルン。すぐさま低音楽器が迫りよってくる。再び、ホルン。
受験生が必死な思いで勉強しているその時、後ろから誰かが迫って来たらこんな雰囲気になるのではないか。どうしても低俗な発想になってしまうって? 仕方が無い、僕にとって受験はそんなに昔のことではないのだから。
音楽の授業でみんな知ってるだろう、彼の耳は聞こえなかった。
絶望の中で、苦しみの中で、のたうち回っただろう。
でも、彼は希望を忘れちゃいなかった。
あぁ。
歓喜の歌が聞こえる。ずっとずっと暗闇の下にいた街が、光を失ってしまった子供が、水を失って成長出来なくなった草木が。それら全てに光が注がれたのだ。
流れてくる音は希望の音楽。トランペットの高らかなファンファーレ。それまで絶望で動けなかったのだろうか、加わるトロンボーンの大きな響き。ピッコロを呼び覚まして生気を取り戻した木管楽器。
先程までとは色彩を変えたオーケストラが、天井から客席にいっぱいの光を伝えはじめた。
どんなに苦しいことでも信じていれば希望はやってくる。暗から明へ。ベートーヴェンだからこそ生み出せたこの奇跡。
弦楽器が一層激しく踊った。
「うわぁ……」
イレギュラーだが、僕の隣からそんな声が聞こえた。彼女の横顔には金粉でもついているかのようであった。
人間は喜びに身体をゆだねてしまうとそれまで味わった苦しみを忘れてしまうものらしい。なんとも便利に出来たものだが、ベートーヴェンは過去を振り返ることも時には大事だと教えてくれた。
それが、再び奏でられる三楽章の主題。
『さぁ、おいで』
天使のように美しい女性が、指揮者に手を差し伸べた気がした。振り上げたタクトを持つ右手がそれにそっと触れる。
そして物語は最高の形で幕を下ろした。
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ベートーベンの運命ほど有名な曲はないのではないか。
かの有名な「じゃじゃじゃじゃーん」から始まるあの曲である。替え歌なんかにもよくされており、クラシック=
実は運命というのは日本で呼ばれている名前だったりするので世界では通じなかったりする。まぁでもここは日本だし、別に問題ないか。
何故突然こんなことを言い出したかというとこれから僕は先輩の演奏する運命を聴くからなのである。
いつのまにか大学三年生になった僕、佐々木祐介は大学でオーケストラをやっている。夏の演奏会を終えてすっかり涼しくなった十一月。来月に控えた引退の演奏会に向けて日夜頑張っている。
そんな忙しさにも関わらず、僕はどうしてこんな礼服、オーケストラで言えば演奏者がする服装をしているかというと、実は先程まで僕はステージで本番を終えたばかりだった。
「佐々木君、隣座るよー」
そう言ってやってきた同級生でクラリネット吹きの槙谷さんも同じような服装をしていた。
「さっきのくるみ割り人形、途中で止まるかと思ったね。ひやひやしちゃった」
客席にも関わらずそんなことを言ってしまうのは彼女ならではだと思う。
まぁ、今日は大学オケとは別にやっているオケの本番だったというのはそろそろご察しいただけただろうか。
うちのオケは引退すると今度はOBオケなるものに基本的に参加する。市民オケや他のアマオケに参加し辛いな、と思うけど楽器を続けたいという人が基本的に所属していて、毎年三,四割のメンバーが加入している。
で、まぁ今日の本番はそのOBオケ。引退していない僕たちだったけど、基本的にうちの大学の生徒なら大歓迎。槙谷さんは去年から参加しているし、チャイコフスキー好きの僕はプログラムの二曲目に組み込まれていた「くるみ割り人形」が吹きたくてつい参加してしまった。そんなに上手じゃないのに……。
そういう経緯で僕らは今こんな格好をしてここにいる。
「どきどきしちゃうね」
彼女の声に呼応するように、休憩終了のブザーが鳴った。
あまり知られていないが、トロンボーンが交響曲に参加したのはこのベートーヴェンの交響曲第五番が初めてだったりする。もっともそれは最後の四楽章だけであったが、これは歴史に大きな影響を与えた。オーケストラでは通常四本編成のホルンでさえ、この曲では二本なのだから。
ふと、会場が暗転した。
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「なぁ赤池」
「ん? どうしたんだね佐々木君」
僕は更衣室で赤池の着替えが終わるのを待っていた。僕と違ってこいつはベートーヴェンも演奏していたのだ。
「冬の演奏会、頑張ろうな」
ぎゅっと右手の拳を握った。爪は肌を傷つけやしなかったが、汗がじんわりをにじむ。
僕の姿は見えてないはずなのに、赤池は「やめとけ、手が可愛そうだろ」などと言ってきて、今度は楽器の片づけにかかる。俺らのコンサートマスターは変人だけど、そのとき見せた背中は誰よりも頼もしく見えた。
高い音が吹けない僕にも、希望はあるかな。
心の中の運命のドアをノックしてみる。もちろんそのテンポはあのメロディーに沿って。