チャイコフスキー 交響曲第五番ホ短調作品64

 いわゆる大学のアマチュアオーケストラというのは年功序列が基本。
 四年になると学業が忙しくなるので進級前の冬に最高学年として引退する。そんなわけでうちの大学オケの一番上というのは三年生となる。
 僕らは二年生。夏冬の演奏会をいまのところ三回行った。
 更に、卒業する四年生を送る会が年明けにはあり、そこでは送られる四年生が引退時に演奏した交響曲をみんなでお祭りのように演奏する。
 そんなわけでそれをあわせれば僕は既に大学で四曲もの交響曲に携わったことになる。



「チャイコフスキー」
「え?」
「だからさ、今度の追い出し会でやる曲。チャイコフスキーの交響曲第五番だって。佐々木好きって言ってなかった?」
「あぁ……」
 大学一年生の十二月の終わり。冬の演奏会を終えた打ち上げの席で言ったのはトランペット二年の中上(なかがみ)先輩だ。
 お酒に強いらしく、しらふと言っても伝わる先輩は未だ飲み続けていて、右手には焼酎の入った紙コップなんて持っている。僕は現役で大学に入ったからまだ十九歳。法律上飲酒は禁止されているのでオレンジジュースで雰囲気を味わっていた。
 そんなときに、唐突に言われた単語はチャイコフスキー。ロシアの作曲家で、バレエ三大組曲なんかはクラシックに詳しくない人だって耳にしたことがあるだろう。
 これはうちの妹との会話の抜粋になるが、
「「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」くらいは知ってるだろ?」
「全部童話じゃないの?」
「くるみ割りの花のワルツなんかはCMでも耳にするよ。ちゃーららーららーちゃららっら、ての」
「あぁ、それかぁ」
 などとフレーズを出せば大半の人は知っていると答えるはずだ。
 で、僕はチャイコフスキーが好きだ。ミーハー気分で気に入ったヴァイオリン協奏曲(協奏曲というのは、ソリストが一人いて、そのソロにあわせてオーケストラが曲を奏でるというものだ)なんかはフィギュアスケートの曲にも使われているしね。
 ぐびっ、とコップの中のアルコールを飲み干して、先輩は逆の手でチーズ鱈を口に運ぶ。
「俺ら金管楽器にとってはオーケストラで活躍出来る代表的な曲だもんな。去年吹いたときはほんとしんどかったよ。体力が……げふっ……もたなくてな」
 酒臭い息が僕の鼻にかかった。
「おー、懐かしいよな」
 僕ではない逆隣に座っていたビオラの先輩が中上先輩に相づちをうつ。そのまま二人は当時の話で盛り上がってしまった。つい数時間前に演奏したシベリウスの話で盛り上がらずに、去年のチャイコフスキーで盛り上がるのが何とも不思議だと僕は思う。両者とも雪国の作曲家だが、曲のスタイルは随分違うなぁと感じながら、僕はジュースを一口飲んだ。



 明るく爽やかだったその空間は一気に景色を変えた。
 一月某日、追い出し会。食堂を借りてテーブルをどかし、椅子を配置してオーケストラの形を作る。立派な大学には立派な専用部屋があるけれども、僕らは食堂を好んで使っていた。広いし、空調も効くしね。
 わいわいがやがや、と四年の先輩が当時を懐かしんでいる。引退してから楽器を続ける者も入れば、最後の演奏会以来、久しぶりに楽器を触ったという先輩もいた。
 この日のプログラムは四曲。モーツァルトとシューマンと、うちの大学がいつも入卒業式で演奏するブラームス、それからメインのチャイコフスキー交響曲第五番。
 華やかなモーツァルト、騒がしいシューマン。
 当時を思い出しながらミスをしても笑い合っている、そんな演奏風景はチャイコフスキーの冒頭で一気に姿を変貌させた。流行の言葉ではないけれど、大事なことだったので僕はつい二度も表現してしまった。

 指揮者のタクトが降りる。
 この年の学生指揮者はクラリネット奏者だった。なので冒頭のソロは本当は彼のものだった。立場上演奏することができないので、代わりに現在二年の先輩が吹いている。
 とても、重苦しい音楽。運命の動機、と名付けられたそれに相応しいクラリネット・ソロ。
 それだけでこの会場は食堂では無くなった。ここにいる誰もが黒色の服を着ている錯覚に陥る。ホルンの配置は指揮者左手後方なので、ここからだと弦楽器全体が見渡せたのだ。
 
 弦楽器がそろって楽器を構えだした。この動作を見るたび中学校の卒業式を思い出す。全員が一度に立てない、あのばらばらとした感じ。せっかくの重苦しい雰囲気がぶち壊しになりそうで、僕は視線を指揮者に移した。
 二分に及ぶソロが終わり、弦楽器がざっくざっくと弓を引く。音量が次第に増して行く。チェロ、ビオラ、そしてセカンドバイオリン。それらの音を下地にして、クラリネットとファゴットが第一主題を奏でた。
 音が、世界を包み込んだ。やわらかく、シュウマイの皮のようなふわりとした包み。心地よいけれど哀しい響き。でもそれは長くは続かない。
 ファースト・バイオリンが一層高周波の音を出した。皮に張りが生まれた。続いて木管楽器が畳み掛けるように音を奏でる。横目で見たフルート奏者の瞳はまっすぐに、指揮者。長い金属の棒を横に持ち、長い指が昆虫の脚のように動く。
 トランペットが楽器を持ち上げた。僕も、隣の先輩に習って楽器を構えた。
 そして、オーケストラを包んでいた皮がはじけた。
 哀愁感のある主題。トランペットとホルンによってかぶさる音。そしてトロンボーンとティンパニによる合いの手。勢いはとどまることを知らない。突き抜ける音が天井をも邪魔だと言っているのがわかる。続く弦楽器と僕たちの掛け合い。最高に気持ちが良い瞬間。上がって下がる音は王道だけれど、その山のようなリズムが心地よい。叫びの如き響きを含んだトランペットのファンファーレ。バイオリンら弦楽器の左右に大きく振られる弓。全身で音を奏でる、指揮者。
 ぶわっ、と汗が出た。
 
 静まり返ったバイオリン。流麗な第二主題。木管楽器と弦楽器のそれはきっと花畑。見渡す限りどこまでも続く草原と、青い空と、長い髪の毛の少女。僕の瞳はそんな情景を映し出していた。
 少女が風に飛ばされた麦わら帽子を追う。追いかけて追いかけて走る、でも景色は変わらない。それほど広い緑色の空間。雲がゆっくりとなびく。地平線に吸い込まれる。吸い込まれて、吸い込まれて、そして少女は遂にたどりついた。
 広がる湖は、きっと第一主題。でもさっきのような哀しい主題じゃない。調を変えただけでそのテーマは涙が出る程明るくなった。
 けれどもその時間は永遠じゃない。少女は成長する。成長しなくてはならない。大人になって、社会の気持ちの悪さを味わう。葛藤、苦しみ。それが全て音楽で表現される。

 はっ、と僕は現実に引き戻される。 
 そうして一楽章が終わると、ベルを支えた僕の右手はすっかり汗にまみれていた。ふっと息を吐けば、そこは見慣れた食堂のはずなのに。
 姿勢をずず、と緩める。その拍子で銀色の楽器が視界に入った。中上先輩だ。彼もまた汗をかいているように見えた。
 二楽章始まってすぐのホルンの独奏。彼女の為に用意された、ソロ。二十小節以上に及ぶソロ。そうしてそれに絡みゆくオーボエ。
 誰もがうっとりするフレーズを固唾を飲んで見守る僕。ホルンを吹き始めてからというもの、このソロを心から楽しむことができなくなってしまったのは本当に残念だ。吹ききるかどうかいつも心配になってしまう。でも彼女は吹ききった。綺麗な、ソロだった。
 再び姿を現す運命動機。そして静かに終わりに近づく苦悩。あの情景は夢だったのだろう。
 場面を舞踏会に変えて、緩やかにステップを踏む少女。素敵な出会いはきっとファゴットとフルートの出会い。誰も彼もがそれを祝福する中、忍び寄る別の気配。刻むバイオリンの、どこか哀しげな音と、対照的にはじける木管楽器。二つの出会いは何を意味するの? その答えは全て運命動機に依る。行進曲を流して何処へ行くの? その答えは分からない。歓迎するのはファンファーレ。でも再びそこからどんどん遠ざかる。優しい闘い、辛い闘い。ゆっくりとした音楽は、少女の悲しみなのだろうか。僕にはわからなかった。
 チャイコフスキーは王道だと思う。特にこの五番はいわゆる勧善懲悪。暗から明への流動。大げさな動作。最終的に流れるのは荒い風景。勝利を確信した戦士の、暗闇での闘い。畳み掛けるようなティンパニ。弦楽器の奏でる運命の音。
 そして、世界は光を取り戻した。
 僕は王道のゲームソフトを思い浮かべた。壮大なエンディングとスタッフロール。「そうして魔王は滅び、世界に平和が訪れました」という一行。
 一度聞いたらきっとその程度。わかりやすいというのはきっとそういうことだ。誰が見ても聴いても想像に易い。


「でも、信じてたでしょ?」
「え?」
 追い出し会の前半、演奏会を終えて飲み会に移行するそこで楽器を片づけながら彼女は僕にそう言った。
「あたしが、ちゃぁんとソロを吹ききるって、やっぱり信じてなかったかな」
 あぁ、そのことか……。
 自分の考えていた勧善懲悪のことかと思って僕はどきりとしてしまった。
「信じてましたよ」
「本当に? どーせ畑山くんが『先輩は高音域が苦手だから吹くのがきわどいです』って言ってたんでしょ」
「あはは、ノーコメントにしておきます」
 僕は自分の楽器を、彼女も自身の楽器をケースにしまいこんだ。畑山というのは三年生のホルンの先輩で、つまるところ目の前にいる彼女の一個下の学年になる。
 畑山先輩は中学から吹奏楽を経験していて、ソリスティックな奏法と、アメリカンな音で非常に上手な先輩だった。高音域を容易く吹き、聴くものを惹き付ける演奏をする。
 対して彼女は低い音域を好み、ソロも苦手だったから正直地味な印象だった。チャイコフスキー五番が演奏曲に選ばれた時、畑山にソロを譲った方がいい、と何度も話し合いになったらしい。
『でも、あたしは吹きます』
 人づてに聞いた、彼女の有名な言葉だ。実際に聞いたわけではないし、引退してしまったため僕と演奏自体はしていないにも関わらず、僕はその姿を簡単に想像することが出来た。
 そして彼女は吹ききった。完璧な演奏と聞かれればきっと首をひねるだろう。でもそこは学生オケの持ち味でもあり、誰のものでもない、彼女の独奏。女性らしい柔らかみを帯びた独奏を僕は録音されたディスクで聴いた。
「CDで聴いたのより、ずっと綺麗でしたよ。僕は信じてましたよ」
 彼女はそれを聞くと照れくさそうに微笑んだ。歯をちらりと見せた微笑みにそれはすぐ形を変える。
「もー何言ってるの佐々木君! ほら早く早く、飲みにいくよ!」
 ばしばし、と背中を叩いて彼女は同級生の元にかけていった。その後ろ姿を見ながら、信じることもたまにはいいかな、なんて僕は思ってみた。
 
 これって、チャイコフスキーの五番にも言えることじゃない?
 そういえば赤池がそんなことを言ってたっけか。

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