+ 第一章 藍色の悩み +

- 3話 現れた王子様? -

声を耳にして、目を開く。先ほどの球体も光もそこにはなかった。代わりに、ふよふよと宙に少年が浮いている。おそらく、あの言葉はこの少年によるものだろう。

「もう一度問う。お主、悩みがーーってオイ!」

再度の問いかけが終わるより早く、杏子はその場を離脱していた。オリンピック先週ですら驚くであろう、スタートダッシュ。彼女が野球選手だったなら、盗塁は間違いなく成功だ。

それまで冷静に喋っていた少年もこれは予想していなかったのだろう。非常に年相応なーー彼はどこをどう見てもまだあどけない少年だったからーー、リアクションで大地に足をついた。

 

 

 

息がきれる。全力疾走など久しぶりだ。ずいぶんと走ってしまった。速度だけではなく、距離もそうとうの自信が杏子にはあった。先ほどの少年の足ではとうてい追いつけまい。彼は胡座をかいて座っていたーーどこに、ということを考え出せばキリがないのでそこは脳内から排除することとして、とにかくあの年頃では、脚もそれほど長くないだろう。すなわちコンパスでは杏子のが上で、時間差を考えても追いつけるわけはない。道も、わざと入り組んだところを選んだ。地の利もこちらにある。

「はぁっ……いったい、あれは、なんなのかしら」

杏子の脳内は疑問符でいっぱいだ。光のこと、球体のこと、そして少年自身のこと。

「まさか突然逃げ出すとは」

びくり、本当に音でも出てしまいそうの肩を震わせる。顔を上げれば、『金髪の』少年が目に入ってきた。今度は自らの脚で直立している。なんとなく偉そうな……そんな雰囲気を出して腕を組んでいた。先ほどから変わらない夜の景色なのだが、彼の周りだけはうっすらとした光に包まれているようである。錯覚かもしれないが。

今度は逃げ出せなかった。驚いたということもあったのだが、先の全力疾走が尾を引いていたのだ。まだ息切れしており、脚が上がる気がしない。それにしても……

「あんた、どうやって……」

疑問はそれだった。 。

悔しさをわずかに見せた杏子を見、少年は腕を組んだまま、唇の端を釣り上げる。その顔は、何故だかどこか大人びて見えた。

「いきなり走り出すからびっくりしたわい。思わずチカラを使ってしまった。おい、聞いておるか?」

不思議なことに、彼の言葉は理解できた。金髪で、いやそれだけじゃない。宙に浮いていたということは、この世のものでもない可能性だってある。杏子は決して霊感が強くはなかったが、ここまで来ては信じざるを得ない。

それに……なんとなくではあるが、不思議と、この少年は自分に害はない気がした。さっきは驚きが勝ってしまったが、物理的に逃げ出すのが不可能なこの状態では、腹をくくるしかないだろう。

「そりゃ、突然変なコスプレ野郎がいたら驚くでしょ」
「む、コスプレだと……?」

良かった、と、杏子は胸をなでおろした。あちらの言葉こそ理解できるが、こちらの言葉が通じるとは限らない。必要条件と十分条件、そして必要十分条件は異なる。唇を釣り上げたまま眉間に皺を寄せている少年の姿が何故だか可笑しく、なんとなしに杏子はゆっくり呼吸した。

「そーよ。コスプレってわかる? コスチューム・プレイ、ね。あんたの今の格好、そーゆーのを言うの」

杏子はそう言いながら、先ほどは困惑により凝視出来なかった彼の全身を観察した。

まず、金髪。ややはねているものの、うなじのあたりで綺麗に切りそろえられた髪の毛が飛び込んでくる。続いて、マント。しかも色はワインレッドである。マントは胸元のブローチによって留められていた。ブローチの色は黄金色である。真っ白いシャツの襟がピンと立っていて、シャツの上には濃いブルーの羽織ものと同色のショートパンツを履いていた。特筆すべきは、ショートパンツの下に履かれた白いタイツに……頭上につけられた、王冠。所謂ギザギザしたタイプのものではなく、アーチ状の、滑らかなフォルムのものだった。

どこからどうみても、どこぞの王子様のコスプレである。

彼自身に自覚があるのかどうかはわからないが、むむむ、と首もかしげ始めており、こちらの質問に回答する素振りが見られない。

「ねえ、あんた誰?」

このままではラチがあかないと、杏子は質問を変えた。もっとも、素直にこの王子様が答えてくれるなどとは期待していなかったのだが……。

少年は表情を変えて、ニヤリと笑った。この顔には見覚えがある。そうだ、さっきの。

「それは、問いか? ならば答えられぬ」

ほら、やっぱり。物語の中では大抵決まっている。こういうことに応じる人物は少ない。一体どうして自分の前でこんなことが起きているのか。それは疑問ではあったがこうも時間ばかりかけてはいられない。諦めて放置しようとしたが、少年の次の言葉に思わず心を奪われた。

「お主、悩みがあるのじゃろ。して、お主の名は?」

突拍子もない発言。心当たりがないわけではなかったが、なぜこの少年はこんなことを言うのだろう。

「我は彼方よりお主に喚 ばれた者じゃ。契約を結ぶには、まず名を」

目の前の王子様は、ますます非現実的な台詞を放った。

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