+ 第一章 藍色の悩み +

- 1話 憂鬱さが連れてくる -

山崎杏子(きょうこ)は怒っていた。怒るというより苛立っていたのだが、彼女にそれを指摘しても誰も得しないだろう。感情は押し殺しきれておらず、すれ違う人達が彼女に視線を浴びせた。それがなお一層苛立ちを増幅させるわけで、

『何見てんのよっ!』

完全に負の連鎖に迷い込んでしまうのもいつものことであった。

ドスの効いた足音が響く。かなり使い込まれたスニーカーが、コンクリートの地面を叩いていた。目の前に建てられている時計は六時を示している。空はまだだいぶ明るく、彼女が半袖を着ているところから、すぐに今が初夏であることを認識出来るだろう。

どうやら、電車の乗り継ぎ中らしかった。杏子はいわゆる駅ビルの二階から、整備された駅外へと出てきていた。ここ数年でこの町もかなり活性化が進み、電車の本数こそ増えねど、ずいぶんと都会をイメージした作りになっていた。

「はいはい、怒る前に、ね。そこでクレープでも食べましょ」
「絶対ヤダ。太る。てか、沙也加(さやか)、あんた今のあたしによくその発言が言えるわよね」

実は杏子の隣には、年の頃同じと思わしき少女がいた。沙也加、というのが名前だろう。さらに言えば二人は髪型以外は全く同じ服装をしている。スニーカーの種類こそ違うものの、その半袖と下半身を覆うジャージは同じ藍色だった。

「そういうこと気にしないのが私の取り柄です」

この沙也加という娘、可愛い顔してなかなかの強者である。黒髪ストレートロングヘアというのはいつの時代も腹黒いと一部で言われているがーー全世界の黒髪ロングの方へ他意はないのだがーー彼女もしっかりそのうちの一人なのだろう。

が、意外にも杏子の身体から力は抜けていった。ふぅっと、付き物でも消えたかのように、周囲すらも明るくなる。

「まぁ、そんなあんただから居心地がいいんだけどね」

お世辞とかではなさそうだ。少なくとも今日この場を見ただけの人からはそれが真意かどうかは判断できない。それほどリラックスして、杏子はにやりと微笑んだ。

 

 

 

さて、どうも二人は帰宅中らしい。同じ方面の電車に乗り込み、座席に腰をおろす。時間が時間であるために、車内はすぐに人でいっぱいになった。他愛ないおしゃべりをしているうちに出発する。

乗車して二十分程経過したところで沙也加が降りて行き、杏子は一人になった。ずいぶんと人も減った。座席は七人掛けのはずなのだが、中途半端な位置に座っているためか、五人しかいない。それゆえ壁にもたれている人もいたが、それがごく自然であるかのように誰も気に留めていなかった。

「ふぅ……」

杏子は隅にいたため、荷物は床に放り投げている。大きめのスポーツバッグ。かなり使い込んでいるらしく、表面がところどころ擦りむけていた。

『沙也加は優しい。あたしだって、今日のことがそんな大したことじゃないってことくらい、わかってる。でも……』

そこまで考えたところで、電車内にくぐもった声が響いた。思わずびくりと肩を震わす。ぼーっとしていたため、反応が遅れてしまった。

「次は終点、終点です」

アナウンスの内容自体はこれといって普段と変わりない。それでも杏子は思考を停止せざるを得ず、かくして荷物を抱えて下車準備を始めた。

 

 

 

流石に七時を回れば辺りは暗くなってくる。駐輪場に停めていた自転車にまたがると、杏子はその場を離脱した。住宅街で、車がたくさん通るここでは歩く人の姿はほとんどない。道路脇設置されたオレンジ色に染まる街灯が、過ぎ去る車を照らしてゆく。

この、更けすぎない夜が、杏子にとって好きな景色のひとつだった。蒸し暑い気候であるものの、自転車に乗っていれば心地よい風が髪の毛をなびかせる。沙也加と比較して杏子の髪は癖があり、肩くらいまでの長さしかなかった。無理やりポニーテールにまとめ上げると、その毛先が彼女の頬を度々くすぐっていた。

「お腹空いたし、急いで帰ろう」

今更急ぐも何もないのだが、スピードを上げて、杏子はその場を駆け出した。

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