17. Then, the cherry blossum season comes. - 4

「お前も知ってる彼だが」
 突然の学者の話だった。胸がちくんといたむ。
 でも、そう感じるのにももうなれてしまった。食堂だとかホールだとか廊下だとか。有名人ですごい人で、でも『ちょっと変な人』と学者が言われているのを耳にする度『そんなことない』と心の中で反論していたのだから。
「彼は自分をまっすぐ見ていた。自分に嘘もつかずに」
「あの人だからできるんじゃないですか?まっすぐ見つけるだけの目標も甲斐性もあったんでしょう?」
「……やっぱり誤解しているな。やりたいことがあったとか、なかったとかそんなんじゃない。彼は、自分の為になるように、いつも努力してきたんだ。その結果、あの形でかえってきたんだ」
「だからそれは彼だからじゃないんですか?」
「お前はそうやっていつも主題から逃げようとする。精神力は有るはずなのに、面倒くさがって物事を見ようとしない。勿体無いと思うんだが」
「だからって、どうしろっていうんですか。わかれば苦労しませんってば」
 教授は女研究員のその質問に一瞬戸惑った表情をみせた。が、すぐに右手を顎に添えて、彼女の目をまっすぐ見据えてこう返した。
「努力、してみることをすすめるが」
「……努力」
「そう、努力。きっと、今のお前に一番欠けてるものだ」
「彼には、豊富なんですか?」
「ああ、彼は努力の固まりと言ってもいいかもしれん」
 教授がそれを言い終えるとほぼ同時に。
「ずいぶん買い被ってませんか教授」
 声はドアから聞こえてきた。
 いつものように、もう『いつも』と呼べるものでは無くなってしまったけれど、学者がいた。大きな研究用のカバンを抱えて、ドアに持たれている。
「ああ、君が来た、と言うことは、もうそんな時間かね。じゃ、私は行くよ。……がんばってな」
「ありがとうございます」
 二人が入れ違いになる。教授は彼が来る事を知っていたらしい。場に取り残された雰囲気の女は、とりあえず不機嫌そうに声を紡ぐ。
「……聞いてたの、話。どこから?」
「んーっと、どうして研究員になったんだってあたり」
「はじめっからじゃない……まあ、いいわ。所詮あたしの会話だしね」
「なー、俺、ずっと思ってたんだけど。どうしてあんたってそう、自分を卑下してんの?いいことないじゃん、いっこも」
 どきり、とした。
「だって、そうすることしか出来ないんだもの」
「あ、またそーいう」
「うっさいわね」
 口調はとげがあったが、久々に学者と話せる喜びはあった。おちつき、自分を見つめれるような、あくまでもそんな感じになれる。
「思ってるだけじゃ、ダメだって。前も言ったけど、やらなきゃ。自分の力でなんかやらなきゃなにもかわらないし、後悔してもいいのかよ、そんなんじゃ、一生そのままだぞ?……自分だけがそんなんだとおもってるんだろ?そんなわけないだろ! 誰だって、つらいことやまだわかんないことあるんだ。でも、やらなきゃ始まらないんだ」
 頭を金づちか何かで殴られたような感じだった。女研究員に衝撃が走る。学者のみたことない表情。 言われたことと、自分の行動と。なにより、なぜだか学者には自分を嫌ってほしくないと言う気持ちが働いていた。
 涙腺がゆるんだ。でも、こらえた。ぜんぶもらしたところで、また学者に自分をこれ以上ランクを下げてもらいたくなかった。学者の中ではそんな人だという認識にはなりたくない。 彼女の心に、『なにか』がみちた気もしないわけではなかった。
「……試験、いつ?」
 関係ないことしか、今は言えなかった。ずっと気になっていたことでもあるので、聞いてしまいたくもあった。
「二月の半ばかな」
 話を変えられても彼は嫌な顔一つせずに答えてくれた。発言の内容に対してもリラックスしていた。まだ一月も先だからだろうか。講議を何度もやって、十分大丈夫だと感じているのか。
『ちがう』
 女研究員は胸中で呟く。
『彼だって、つらいのよ。不安なのよ。みんなそうなのに、何で気付かなかったの?いままで、一体あたしは何をしていたと言うの?』
 もどかしい気持ちがどんどん溢れてきた。自分がとても嫌な人間に思えた。逃げてしまいたかった。 でも、知ってしまった以上は、逃げるわけには行かない。
「いってらっしゃい」
「は?」
「だから、試験。がんばって」
「あ、ああ」
 話の脈絡がないため、中々理解しがたかったのか、学者の声はどこか拍子抜けしていた。それは、もやもやして、それしか言うことが出来なかった彼女の心を、やんわりと包むものだった。
 彼女にとって、学者の存在はいろんな意味で大きくなっていた。大きくて大きくて、彼が旅立つ時の事を考えるのが痛かった。
 いろんなものを掴むために、自分のことを見つけるために。彼女は動き始めようとしていた。すこしずつ、すこしずつ。
 遅いはじまりに過ぎなかったけれど、大きなことだったのだ。