教授が去ってから……自分の研究に戻ったのだろう。古臭いテーブルに向かい合って、二人はそれぞれレポートらしきものを書いていた。『らしき』と表現したのは、女研究員にとってそれはレポートと呼べるものではないと言う事、また、学者のそれはむしろ論文に近いような気がしたからだ。
カリカリ、と鉛筆が滑る音だけがする。でこぼこの机ゆえ、彼は下敷きをひいているらしい。
「知ってたのね」
沈黙に耐えられなくなった女研究員がまずはじめに口を開いた。
「知ってたって、何が」
手はそのまま、顔もあげず、まさに前と同じように彼は促した。
「何って、ここに来る予定だったって言う事。知ってて言わなかったなんて……いやらしい」
「知ってたわけじゃないよ。もちろん二号館に来るって事は予定していたけど、まさか白科とは思いも知らなかったよ。今日聞かされて、びっくりした」
「びっくりしたって表情じゃないし」
皮肉たっぷりに彼女が続ける。が、彼には全くそれは届いていなかったらしい。仕方ないので、また普通に話をはじめた。
「何のために来たのよ」
「あんた話聞いてなかったの?講師としてきたんだよ。あ、あんたは参加しないんだっけ?」
「何よその言い方。行かないけど」
「来ないんだ」
にやにやと、そこで彼は顔を上げた。不本意ながら頬が紅潮する。握ったシャープペンシルが汗で滑る。
開けた窓からさわやかな風が吹いてきて、手元の紙をめくった。
それを抑えながら彼女はつぶやいた。
「……仕方ないわね、行ってあげるわ」
「そいつぁーどーも」
「……」
なんでいちいちこいつは皮肉めいてるの?
胸中で叫ぶだけ叫んで、やはり自分に平和は当分来ないと悟った。というか先ほどの笑みはなんだったのだ。こっそりと脳内だけで叫ぶ。ぐるぐるぐる。
行き場のない感情を手元の紙に例えるように、ぐしゃぐしゃと線と円でうめつくしながら、ちらちらと彼の姿を見てみた。
もうこっちは見ていない。既に集中体制になっている。手元にはあの、わけの分からなそうな難しい本。レポート用紙を次々に埋めてゆき、すぐさま用紙を取り替える姿。
と。先ほどより強い風が吹いた。彼のデスクにあった用紙の一枚が、彼女の方へと飛んでくる。
当然であるかのごとく、女がためらいなくそれを手にした。
そして愕然とした。
「どーだ、凄すぎて声もでないだろう」
目の前で自分の研究論文とにらめっこする研究員を見、反応をまっているようにも見える。
ふふん、とのけぞり、にやにやしながら言った。が、彼女は持っていた紙の、文字の書かれた方を彼に向け、キッパリと言い放った。
「ど、下手な字」
渾身の力を込めていった台詞。
あっけに取られる学者をしり目に、女は続ける。
「これはひどいわよー。いくら急がなきゃってっておもってももうちょっと丁寧にいくものよ?この英語……fでしょ?これじゃあ8にみえるってば。ああもう〜」
「……驚いた。そんな風に喋るんだな」
「え?」
言われて気付いて女が学者に注目を変えた時、学者はただひたすら笑っていた。
そんなある夏の日のことだった。