Another 02. Happy Merry Christmas !

 これは、何かの間違いだと。
 心の中で思いながらも、準備は怠れない。トイレの鏡を向かいにして、映る顔を見ては頬を叩いた。
「この顔は、やばいって。やばい」
 片方の頬だけでは飽き足らず、両頬を平手打ちするのだが、腑抜けた唇の端は直らない。
 そう、彼女はにやけていた。


 事の始まりは、先週の金曜のことだった。研究所内の――全員参加がほぼ強制の忘年会の帰り道。二次会に行かず帰路についたときだった。
「お前さんも帰るんだ。こういうの、好きそうなのに」
 その日はとても寒くて、明日からの三連休は家に引きこもろうなどと思考を巡らせていた矢先である。自分の頭上から、つまりは身長差のかなりある相手からそんなふうに言われてもすぐに反応できなかった。
「え、まぁ、うん」
「研究以外のことはやる気あるのかなって思ってたんだけど」
 そこまで会話が続いて、相手がかの学者であることを理解した。そう、彼も年末年始ということでこちらに戻ってきていたのだ。たまたまその日程と、恩師主催の忘年会が被ったからこうしてここにいる。
 発言の主と内容を照らし合わせることが出来て……彼女は思わず、むっとした。
「失礼しちゃう。研究も最近は成果が出てきたんだから! 言ったでしょ?」
「そういや、言ってたな」
 この男は、相変わらず笑い方が独特だ。首をカクカクさせる様が、鳥のような動きに似ている。そんな変な奴といるのもすっかり慣れてしまった自分も……きっとどこか変わり者だろう。
 ぷい、という態度をとっていたが、ふと思いついて聞いた。
「なんだっけ。あぁ、好きよ。でも寒いし、なんかなぁって言う感じで。二次会に行っても疲れるからやめちゃった」
「ふうん。じゃあ、外での食事とかが嫌いってわけじゃないんだ。じゃあ、これ、どう?」
 そう言って、学者が出してきたのは白い封筒だった。封筒と言っても、ビジネスライクな角四号的なものではなく、一見招待状にも見えるフォルムである。銀色のシールが止められていたところからではなく、横がはさみで切り取られていて、そこから彼は二枚の厚紙を取り出した。
「ホテルのレストランのサービス券。月末までらしいんだけど、俺の都合は火曜しか空いてないんだよね。結構いい食事みたいだし、予定あいてる?」
 ともすれば、それは男性が女性を口説くときに使うセリフ。
 しかも、火曜日は……
「行く!」  即答だった。


 そんなわけで普段は着ないようなワンピースにファッションバッグを携えて、彼女はコートを羽織った。待ち合わせの時間までは十五分ある。気合いを入れすぎて三十分以上前に着いてしまったのだが、それを気取られるわけにはいかない。ファッションビルで時間をつぶそうとしても落ち着かない。雑貨屋にはカップルがひしめき合っているし、そんな中こう、正装した自分がらしくなくて、心臓の鼓動が止まらなかった。
「お、早いな」
 待ち合わせ場所に、既に彼はいた。いつもの黒いロングコート。前はきっちり閉じているからわからないが、スーツでも着ているだろう。
「普段と全く変わらないのね」
 スーツ自体は見慣れていた。研究発表ではいまだにこういった正装が根付いている。近年、私服も増えているが彼のような上の者はなおさらスーツが一般的だ。
 しかし、髪型は相変わらずの寝癖である。自分とのギャップに、どこか呆れたようにつぶやいた。
「……ん? なんかまずいか?」
「別に」
 たぶん、彼としては今日がどんな日であるか等気にしていないのだろう。自分だって、こんなものに一喜一憂したくない。それは自分のポリシーでもある。だが、それでも誘われたら心躍らずにいられないじゃないか。
 空回りした自分が嫌になって、男より先に足を踏み出した。
「あぶない!」
 と。勢いがよかったせいか、つるりと彼女のヒールが滑った。ちょうど昨日は雨だった。今日になって上がったものの、アスファルトではなかなか乾くのが遅い。 せっかくの服が汚れてしまうと、そう思ったが杞憂に終わった。学者が、彼女の腕をしっかり掴んで支えたのだ。ギリギリセーフ。おかげで、尻もちつくことはなかった。
「あぶなかったな」
 珍しく、男が息を切らしている。ちょうど後ろから抱えられているような姿勢になっていたが、それを気に留める心の余裕はいまのところない。
「あ、ありがと」
 シチュエーションをつかめないまま、女が体をゆっくり離す。
「普段履かないようなもの履いてるからだよ。気をつけな」
 それはまた、女の感情を逆なでるセリフだったのだが……
「せっかく、似合っているんだし」
 それは、全てこの言葉によって止められた。
「え?」
「ん?」
 だめだ、これも深い意味がない。
 ……ただそれでも、彼女にとってはうれしかった。既に学者の脳みそはこれから食べる豪華な食事にシフトしていたけれども、自分がこういう服装をしていることに気付かれなかったわけではないのだ。
 ちっぽけであるが、それが何よりも心地よかった。
「コースは、アルコールからデザートまでらしい」
 フレンチのコース。アルコールと言ってもきっと食前酒程度だろう。ただ、デザートの方は期待していいかもしれない。なんといっても、今日はクリスマス・イブなのだから。
「煎餅男としては、ケーキなんか食べないかしら?」
「……案外根に持つんだな」
 そういう言葉を返してくるところからすると、彼も今年のバレンタインのことは覚えているのだろう。 根に持つ、根に持たないということよりも――彼女からしたら、その事実を『覚えていてくれた』という事実が嬉しくなって、思わずステップを踏んだ。どんな形であれ、共通の思い出が作られていくのはとても幸せなことだ。その相手が誰であっても、だ。
 ともすれば、雨上がりの路上では滑ってしまう可能性もある。それでもそんなことは気に留めないくらい心が躍った。
「あたし、根に持つタイプよ。知らなかった?」
 そういう彼女の顔は――最高潮の笑みを携えていて……。  
 寒さなんてすっかりどこかへいってしまった。ディナーを前にして、身体も心も温かくなった彼女が転がり落ちるまで、あと五秒。


[2013.12.24]