Another 01. St. Valentine's Day

 お菓子業界に踊らされる行事は、文明が発達したところで変わらず存在する。 そこだけは未だにアナログで、女性たちは紙袋いっぱいに、その甘い物体を抱えていた。
「……何が楽しいのかしら」
 研究所の一室。もはや彼女の部屋と化しているそこに一人、女の姿があった。
 例の研究員だが、こころなしか髪の毛が伸びたように見える。ただし整えられているわけでもなく、結われ方は適当だ。 すっかり慣れたチェアをギシギシと揺らし、窓から外を眺める。数人の女子学生や同じ立場の者たちが、男の背中を追いかけているのが視線に入った。
「いつの時代もああいうものに踊らされたいんだよ」
 実は部屋にはもう一人。ただし、女性ではない。彼女の指導者である教授が立っている。 彼は相変わらず小奇麗な容姿で、笑いながら書類の束をめくっていた。
 よく見れば、部屋の中にはあらゆる紙が転がっている。電子的でデジタルが盛んでも、人間が目にするのはやはり紙の方が馴染み深い。 下手をすれば資源の無駄にもなってしまいそうであるが、その散乱具合を責める人は残念ながら此処には存在しなかった。
「踊らされてるっていう表現にも、悪意を感じますけど」
「いやいや。俺は家族からちゃんとおこぼれを預かりますよ」
 一児の父である教授からすれば、たとえそういう行事であっても構わないのだろう。
「そういうお前は、何もしないのか?」
「それですよ。その質問がいやなんです。なにもしないなんて女じゃないーっとか、そういう風に勝手に言われるのが腹立つ」
 正直なところ、これまでにそういうことをしていなかったわけではない。もういい年だし、恋愛のひとつやふたつしたことはある。 しかし、友人同士でプレゼントし合うとか、ドキドキしながら男性に用意するとか、そういうのはすっかりなくなってしまった。
「ま、お前があげたい相手は遠くにいるからな」
 教授はそう言うと、にやにやした顔のまま一旦部屋を出て行った。
「ちょっと、教授!」
 反論の台詞も届かない。
 思わず舌打ちしてしまった。まったく……教授は誰のことを言っているのだろう。別に、そんな相手がいるわけじゃないのに……。
 考えていると、部屋のドアがノックされた。この部屋に用事があるのは自分か教授くらい。そのどちらもノックなんかしない。 ではそれ以外の誰かとなれば、大方セールスか変人かだろう。
 なんかの勧誘かしら……と、最近もっぱら増えてきたことに頭を抱えながら、姿勢を正して声をかけた。
「どうぞ。開いてます」
 ガチャ、と。現れた人物を見て、驚いた。
「よぅ」
 首をカクカクと独特に動かして、黒縁フレーム眼鏡をかけた長身の男性がそこにいる。
「……あんた、なんでいるの?」
「研究発表のついでに。すぐ戻るけど。せっかくだから顔を見せに。あれ、教授には伝えてたんだけど、聞いてない?」
 あいつ……。さきほどのニヤケ顔はそういうことだったのだ。相変わらず性格が悪い。
「別に」
 素っ気無い返事もどうやら学者としてはうれしかったようで、今までの彼ではしないような微笑を浮かべた。 思わず、その顔にどきりとする。
「んでも、ずいぶんがんばってるみたいだな」
 女研究員の心など知る由も無く、学者は床に散乱した紙を拾い上げた。いくつかの研究論文。女研究員ががんばってる証拠でもある。
「まぁね。目標もあるし」
「ふうん?」
 すべてを見透かしたような顔で。久しぶりだというのに学者はこれだ。
 自分が同じくらいすごい学者になっても。きっと彼にはかなわないのだろう。観念したように、不思議と、恥ずかしさの欠片もなく言葉が口をつく。
「あんた、チョコレート好き? あげようか?」
 学者は目をぱちりとさせながら……あぁ、こんな顔もするんだと嬉しくなり、これだけでこの価値があると思えた。
 そうして、彼は首を横に振ると、いつもの不適な顔で言った。
「いらん。俺は煎餅のが好きだ」
 かわいくない男だ。


[2013.2.14]