01. Summer, a beginning - 1

「まだ何も決まってないのか?」
 三十半ばの男性の声は、同じ室内にいる女性に向けられたものだろう。 それが日常茶飯事であるのかのように、話しかけられた彼女は驚きも喜びも表さない。
「決まってないですよ」
 声にも、抑揚などはなかった。 年期が入っているのだろうか、古ぼけてシミやキズの付いた木のテーブルが部屋に置かれている。 彼女はそれに腕と顔を乗せた姿勢でのほほんとしていた。
 やはり慣れた事なのだろう。彼女のそんな態度に特に何も感じた様子はなく、男は続けた。
「決まってないって、またそれか。せっかくこの研究所ではやりたい事ができるんだから、ちょっとは考えてみたらどうだ?」
 白衣のポケットに入れた男の手がわずかに湿る。
  「決まればいいんですけどねー」
 女は体をぐるりと反転させた。テーブルに伏せていた顔を起こす。
「……まるっきり他人事だな。やりたいことでいいんだぞ?ここは自由が約束されてるんだから」
「やりたい事があれば苦労しませんよ」
 言う女の目は、そこだけ光を帯びていた。
 会話は其処で終わった。いくらいつもの事とはいえ、今日は熱くなりすぎたのだろうか。男はしきりに手を握ったり開いたりしている。 察するに、教師と生徒のような間柄なのだろう。来た時と結局変わる事のない現状に少しだけため息が漏れる。 後ろを振り向いて、湿った手をドアノブにかけた。
 と、そこで何かを思い出したのだろう。男は顔だけ後ろに向け、先ほどと変わらない姿勢の女を視界にとどめて、こう言った。
「……んと、なんでもいいけどな。せっかくなんだ。やりたい事見つけてやっておかないと、後で苦労するぞ?」
 何故か最後は言い聞かせでもなんでもない、疑問符だった。それと同時に、男はドアの奥に消えていった。
「…………んな事言ったって、やりたい事が見つかればホントに問題ないのよぉ」
 窓の外では夕焼けと、たくさんの人が建物から出ていく姿が見える。
 呟きの後、しばらくして彼女は立ち上がった。 着ていた真新しい汚れのない白衣が地を滑る。埃はさほどつかない。人が居ないからか、もしくはまめに掃除を行っているのか。
 よく見ると、部屋にはほとんど家具は無かった。先ほどのテーブルと、それに加えてデスクが三つ。灰色のロッカーが数点と本棚があるくらいだ。
 女は白衣を脱ぎ捨てて、テーブルの隅に置かれていた鍵をひっつかむ。そして彼女は部屋をでた。

 ドアプレートは真っ白で、文字は書かれてなかった。