春の風と君の声

 息が白くなる、というレベルではないにしろ、朝はまだ肌寒い。両の手はしっかりと手袋によって冷たい空気から逃れている。ふぅう、と軽く息だけ吐いた。左手首にはまった時計が指し示す時間は午前七時五十一分。彼がこの空の下に立ってから八分が経過していた。
 時計から目を離し、通りの先へと視線を移す。小さいけれども誰かが走ってくるのが見えた。
「ごめぇぇん!」
 その『誰か』がこちらに向かって叫んでくる。若い女性の声だ。それから数秒して、声の主がようやく近くまでやってきた。
「……ぜぇ、ぜぇ……な、なんとか……間に合った……わ……」
 体を腰から曲げて、片方の手を膝に当てる。肩が上下に揺れて、全身で呼吸を整えているのが見て取れた。肝心の口元はガーゼマスクで覆われていたのだが、瞳は大きく、決して不細工というわけでもなさそうである。
 彼女を冷ややかな目で見つつ、時刻を確認すると針は既に十一の数字を指していた。ここから目的地までは二十分強。
「まぁ、始業には間に合うと思うけど、俺との待ち合わせに間に合ったとは言えないよね」
 二人ともコートを着ていたせいでわかりづらいが、彼らは高校生だ。確かに、男の方は黒いスラックスにスニーカーだったし、女の方は空気に触れる生足と黒のハイソックス。所謂通学スタイルである。
 どちらともなく歩み始めると、やっと落ち着いたのか、女の方が話しかけてきた。
「始業に間に合うなら問題ないっての。啓介は相変わらず厳しいんだから」
「俺が厳しいんじゃない、お前がずぼらすぎるんだ、梓(あずさ)」
 啓介と梓。それが彼らの名前なのだろう。ファーストネームで呼び合うということは、二人はそれなりに仲が良いのかもしれない。頬を膨らませて梓が反論するが、それ以上の発言はしないまま、無言で通学路を進んだ。
 梓のローファーが、アスファルトを踏みしめる。道の隅のほうに白い塊が散らばっており、なんとなしに彼女はそこへ足を踏み入れた。つるりとも言い難い感触が靴を伝わってくる。
「冷たくない?」
「靴越しだから、ヘーキ。すっかり雪も溶けちゃったね」  白い物体は雪の残りだったのだろう。確かに注目してみれば、ところどころ電柱の上のほうは水滴が輝いていたし、道路も若干湿っている。雨上がりにしては空気は冷たく心地よいし、空も煌いていた。
 啓介と梓が住んでいる地域では、滅多に雪は積もらない。北の方の寒波は日本アルプスにぶつかってしまうため、彼らの住んでいる方には乾いた風しかやってこなかった。それでも盆地であるこの辺りは一年に一度くらいは雪が降る。ただし、それが積もることは殆どなかった。たまたま今年は気温が低く、雪が溶けにくかったのである。
「受験じゃなかったら、遊んだのにな。残念」
 その言葉に、啓介は返事が出来なかった。視線を落とす。腕時計が指す時刻は八時四分、まだ殆ど進んでいない。
 普段は、あっという間に時間が過ぎるのにな……そんなことを過ぎらせながら、啓介が梓のほうを見た。
「そうは言っても、遊んでたら今の俺らはいないぜ?」
「……そんなことわかってるよっ」
 自分たちは、先日受験を終えた。あらゆる娯楽を我慢し、机に向かい、補習をこなし……そうしてある結果を得る。この選択が、自分たちの未来にどのくらいの影響を与えるかなど、想像もつかない。業界がどんな風になっているかも予想できないし、ましてや国がどうなっているかもわからない。それゆえに、自分たちのこの「受験」という行事とその結果について自信が持ちきれないでいた。
「いろんなこと我慢したから、俺も、お前も、第一志望合格だ」
 結果として、二人とも一般的に『良い』結果を手にした。
 雪が溶けて、やってくる春。彼らにとって希望に満ち溢れた日々が訪れるだろう。我慢していた日々からの解放。それにもかかわらず、梓の表情は曇ったままだ。
 その理由に気づかないふりをする。
『卑怯かな、俺は……」
 歩いているうちに、体が暖かくなってきた。首に巻いたマフラーも、手につけた手袋も邪魔になる。別のことに集中しているふりとして、啓介は手袋を外すことにした。生暖かい風が、彼の肌に触れてくる。
「ねえ、啓介」
「ん?」
「いろんなことに我慢してさ。たとえばもう積もらないかもしれない雪を無視してさ……。それでも、あたしたちがここまでする意味ってあるのかな?」
「……」
 梓が言う、『ここまでする』ということはきっと受験のことだろう。一年近く、二人は机に向かっていた。学校や両親の期待。それと、小さいけれども持っている自分たちの夢。そのために頑張っていたものの、二度とくるかどうかもわからない出来事に、後悔にも似た感情が生まれるのだろう。
 啓介も、否定はしなかった。この辺りでは有名な公立の進学校。就職率ゼロパーセント――つまり、進学しかしないというここでは受験こそが当たり前。それゆえに啓介は自分の行動に疑問を持っていなかった。
 けれど、梓は違う。それは……きっと……
「啓介は、いつ引っ越すの?」
 時計を見る。時刻は八時十七分。
「もうこんな時間だ。急ぐぞ、梓」
 質問には答えず、啓介が急かす。駆け出してしまいたかったが、湿ったアスファルトでは下手をすると転んでしまうだろう。それゆえに、声だけで促す。
 当然、梓のほうと言えば走りはしなかった。それどころか――ゆっくりと歩いていたその脚すらも、止めた。
「あず……」
「どうして、質問をシカトするかな?」
「どうして……って。だって、急がないと」
「もう卒業しかないんだし、登校しているクラスメイトだって少ないよ。内申点にだってもういまさら影響しない。それより、あたしの質問に答えてよ」
 彼女の言うことは尤もだった、数日もすれば卒業式。任意通学となっているため、無理に行く必要なんかない。啓介も梓も進学先は決まっている。学校に行ったところで、特に用事があるわけではない。
 それでも、二人がこうして通学している理由。どちらともなく、言葉にする『また、明日もここで』という言葉。それが今の今まで解消されることがなかったから、だ。
「そりゃそうだけど……」
「でしょ? だから、教えてよ。いつ、上京しちゃうのか……」
 最後のほうの言葉は、消えそうなほど小さかった。勝気な梓らしくない、萎れた声。啓介はそれに気づかないフリをして、答える。
「三週目には。とりあえず引越しして、そのままあっちに住むつもりだよ。どんな街か知る必要もあるしな。……梓は?」
「……知ってて言ってるよね? あたしは実家から通うよ。電車で二時間かかるけど、しばらくはそのつもり」
「うん、知ってた」
 いつの間にか住宅地を抜けていた。田舎の田んぼ道。太陽の光が当たるためか、もう雪は残っていない。ふわり、と風が吹く。ここ数日は、風が強くなってきた。
「知ってて言うから、啓介は卑怯なの……はくしゅっ」
 立ち止まっていた梓が歩き出す。子供っぽく頬を膨らませて、啓介の横を通った。そのとき、彼女がくしゃみした。
「うへぇ……」
「相変わらずみっともないな。ほれ」
 女子高生にはあるまじき姿だろう。鼻から水分をたらし、ジト目で梓が啓介を見る。思わずそれに微笑を浮かべて、啓介はポケットティッシュを差し出した。 「あり、が……ふぇっくしゅ。ありがと」
 ティッシュを一枚受け取り、ずびびびびと鼻をかむ。その動作に、啓介は呆れて言った。
「そのかみ方、前から直せって言ってるだろ。鼻は、片方ずつでかまないと」
「もう、口うるさいなぁ! ずっと聞いてて耳タコ!」
「だって、お前それ昔から変わんねーし……」
「いいじゃない、啓介に迷惑かけた? 別に困ってない……はくしょん!」
 風が止む。けれども、梓のくしゃみは止まらなかった。体調を崩したわけでもなさそうだ。これは……。
「お前の花粉症、幼稚園からじゃん。そのたびに鼻たらして。みっともないぞ?」
 梓は決して自分のハンカチもティッシュも取り出さなかった。それが至極当然であるかのように、啓介のポケットティッシュを奪う。ごみは丸めて自分のポケットへ。それの繰り返しだ。
「いいでしょ別に鼻くらい。それにしても、啓介は自分関係ないのによくティッシュ持ってるわよね」
「そりゃ、だって……」
 毎年のことだろ? その言葉は言えずに掻き消えた。
 梓はふと、笑う。
「ねえ、来年からも、ティッシュ貸してくれる?」
 先ほどまでの怒りは何処へいったのだろう。キラキラした笑顔で……ただし鼻からはは相変わらず鼻水を出して、梓が聞いてきた。
 ティッシュをつまみ、彼女の鼻へと押し当てる。
「ふぎゃ」
 ぐりぐりと。そういえばいつから梓の身長を追い越してしまったのかと、不意に啓介は思った。そうして、彼女とずっと一緒にいたのだということを改めて痛感した。
「こんな鼻じゃ、恋愛すら出来ないだろうな」
 ただそれ以上は言葉にしないで……二人は、通学路をいつも通り歩き始めた。
 梓の目が、赤くなる。なんとなく、潤んでいるように見える。
「泣いてるの?」
 意地悪く、啓介が言った。視界の隅には見慣れた建物が入ってきていた。腕時計が指す時間は八時四十一分。完全にホームルームは開始しているだろう。
 梓はその言葉にふるふると首を振ると、啓介から目をそらした。髪の毛の隙間からのぞく頬が、うっすらと紅潮していた。
「別に。これはくしゃみのせいよ!」

 今年も、やっかいな春を二人で迎える。


[終わり]