僕らの衣食住

 俺は、料理が好きだ。
 料理人になろうとかそういうことを思ったことが……ないわけじゃないけれど、一趣味として楽しんでいる今に不満はない。
 今日も事務仕事を定時で終えて、俺はスーパーへ向かった。毎週水曜日は野菜の特売。このご時世、新聞はスマートフォンで閲覧するし、特売チラシもウェブで取得する。やっていることは昔と変わらないが、そのツールは確かに変化していた。それでも、人間食事を摂るという行為だけは昔から全く変わらない。
 安売りしていた茄子とピーマン、それから挽肉をカゴへ入れて、俺はその場を軽快に歩いていた。

 
「ただいま。ふぁ〜、いい匂いがするー」
 我が家の玄関とキッチンダイニングの距離は遠くない。鍵穴に金属が差し込まれ、ひねられる音が聞こえた時点で、俺はその行動の主に思い当たっていた。
「おかえり」
 そのまま、こちらの部屋へ彼女が入ってくる。残念ながら決して美人ではない。体格が太いとか、身だしなみが整っていないとか、そういうのではなくて――なんというか、綺麗どころという表現は似合わない。一時期ブームになった『干物女』という表現が適切だろう。
「ご飯にするよ」
「はーい。Tシャツ着てくるね」
 彼女との関係は、長い。付き合い始めて五年、同棲し始めてからは二年が経過していた。
「ぷっはぁ。やっぱ仕事した日はこれだねっ。生き返るわー」
 我が家の夕飯は晩酌を兼ねている。部屋着に着替えた彼女とテーブルを囲んで、乾杯。
 風呂こそ入っていないものの、すっぴんにTシャツというラフな服装の彼女が、それを一気に飲み干す。
「完全にオヤジだよ、それ」
「その表現はオヤジに失礼だぞ?」
 そう言って、胡瓜の浅漬けを口に運んでいた。
 ダイニングテーブルの上には、ライトブラウンのランチマット。それからガラス製の箸置き。前菜は胡瓜の浅漬けと、くらげのピリ辛和えだ。こういうおつまみは休日に作り置きしておくと、普段の生活が楽になる。他にも数品ストックしているが、今日はメインが中華なのでこれを出した。
「メインは中華だね。ふふふ」
 それは、彼女にも伝わっていた。無理もない。付き合いが長いんだから、ある程度のことはお互い通じ合っている。
 あっという間にグラスを空にして、新しいものを取り出しに行く。
「平日に、そんなに飲んで大丈夫なのか?」
「ちょうど、大きな案件がひと段落したの。あとは順調に進んでくれればいいんだけどなぁ」
 そうそう、と言って、彼女はスマートフォンを取り出した。俺なんかよりも数倍速く操作して、何かの画面を見せてくる。
「このアプリ、うちが作ったの。かっこいいでしょえへへー」
 そう言って笑う彼女は、エンジニア。男社会の中で負けじと前線で働いている彼女は、時に家で愚痴をこぼすこともあれど充実した毎日を送っていた。


 その日、彼女の帰りは遅かった。金曜日だし、プロジェクトが終わったと言っていたのでそれほど心配していなかった。
 そういう日は俺も飲みに行くことにしている。
「お前は、結婚とかしないの?」
 三十路を超えたあたりあたりから、そういう会話が多くなった。ざわめきだけが多い居酒屋で、俺は枝豆をつまみながら、苦笑する。それだけで、何を言おうとしているか周りは察してくれるのだ。
「でも、彼女さんは絶対待ってるでしょ? いくつ離れてたっけ?」
「四つ下だけど、あいつ仕事人間だし、そういったそぶりは見せないけどなぁ」
「それ、気付いてないだけだよー。絶対待ってるって。ほんとに!」
 この手の話題は、女が食いついてくる。大体このメンバで飲むから、決まって後輩二人が俺に向かってブーイングするんだ。
「関係ないだろ、まったく」
 ハイボールのジョッキに手をかける。その仕草がますます気に入らないようで、口を尖らせて続けてきた。
「彼女さんかわいそう。言わないだけだよ」
「女なら憧れるんですよ。言ってもらうの待ちです!」
 結局、二人の話題はそのままどういうのが好みだとか、どういう結婚式を挙げたいかとかそういう方向へシフトしていった。これも、お決まりのパターンである。
「あいつらは、結婚したいのか結婚式をしたいのか、どっちなのかな」
 隣の席の同僚が笑った。彼は俺サイドで、男の気持ちをわかってくれる。まあ男だから当然だけど。
 けれども、去年から彼の左手薬指にはプラチナの装飾品が増えてしまった。
「お前のとこは、どうだったんだ?」
 口にこそ出さないものの、時々奥さんの話をしたがるこいつに、俺も時々聞いてやる。照れくさそうに笑いながらも話し始めるところが、きっと年上女性の心をつかんだのだろう。
「でも、料理は上手いよ。お前ほどじゃないかもだけど」
「俺クラスになるには、相当の修行が必要だぜ?」
「うわ、恥ずかしいセリフ!」
 俺が料理好きなのはみんな知っていた。弁当を持参しているのだが、鮮やかなメニューに女子社員からも大好評。これ、俺のちょっとした自慢な。
 こいつも弁当持参組だけど、愛妻弁当だから俺とは違う。この間の卵焼きは若干焦げ目があったものの砂糖の甘い味がして、新婚夫婦らしさが伝わってくるいいものだった。
「食事はいいよな。幸せになれる」
「ほんと。食べなくていい体になりたい、痩せたいって思うけど、でもやっぱりゴハンのない生活は耐えられないよね!」
 いつのまにか男性陣の会話に戻ってきた女子二人が、食事に対して同意してくる。
 ほら、やっぱり料理って素敵だ。


 湯船に浸かって飲み会の出来事を思い出しているうちに、ずいぶん時間が経った気がする。
「いかん、のぼせる。出よう」
 俺は、風呂を出た。時計を確認すれば、既に一時半だった。入浴中に、彼女が帰ってきた気配はない。
 と、チャイムが鳴った。こんな夜遅くに、と思う反面、ほっとした。彼女だろう。鍵を忘れたとか、飲んでいて荷物を探すのが面倒くさいとかそういう類だろうと。
「はいはい、ちょっとまってな」
 我が家はインターホンなので、そこから出ればいいのだが、彼女ならば焦る必要はないだろう。さすがに裸というのは気が引けたので、シャツとトランクスだけ履く。
「げ」
 一応、鍵を開ける前にのぞき穴だけ確認した。……確かに彼女だった。が、男女に左右から抱えられた彼女だった。
「なんか、すみません……」
 来訪者を招く。彼女を抱えて来てくれた二人とは面識があった。うちの引っ越しを手伝ってくれた恋人同士で、彼女の同僚である。
 家に上がるように促したが、遅いということもあり、靴を脱ごうとしなかった。
「ぐあぁ〜」
 泥酔した人間は重く、よろめきながらも肩に担いで、彼女を布団に転がした。正直、みっともない。
「いつも、すみません」
 こういったことは時々あった。それにしたって今回はひどいけど。再度謝罪する。
「大丈夫ですよ。こちらこそ、楽しく飲ませていただきましたし、お祝いもいただきました。でも、何かあったんですか? 今日はやけに荒れてましたよ」
「いや……特に心当たりは。ところで、祝いって?」
「あ、話してなかったんですね。失礼しました。実は僕たちこの度婚約しまして」
 そう言うと、それまで黙っていた女性の方が左手を見せてきた。詳しくないので価値はわからないけど、そこには輝くリングがはめられている。
「うわぁ、それはおめでとうございます」
「ありがとうございます。だから、今日はその飲み会だったんですよ」
「なるほど」
 お互いのプライバシーに関わるので、何の飲み会だとかは聞いたことがほとんどない。
 彼女の部屋から、ふと、うめき声が聞こえてきた。
「ばかやろぉ……」
 それは同僚達にも聞こえていたようで、彼らが笑ってくる。俺は、とても恥ずかしくなった。
「もう、私たちも三十になりますからね。結婚は年齢じゃないけど、彼女にも思うところがあったのかも、しれません」
 最後にそういう会話を少しだけして、彼らは帰って行った。少しだけタクシー代を渡しておいた。
 彼女の部屋へ行く。まだ寝苦しい暑さのためか、タオルケットはどこかに飛んでしまっていた。それを掛けなおして、俺は彼女の頬をそっと撫でた。


 次の日の彼女は、普段と全く変わらなかった。二日酔いということを除けば、だ。
「うぅぅ……しんどい……」
「今日は、一日おとなしくしてようか?」
 飲み会の次の日は、決まって蕎麦を食べることにしている。しらすとひじきとツナを混ぜた冷たい蕎麦だ。二日酔いでも食欲はあるのか、彼女はふらふらしながらもそれを食べ始めた。そうしてまもなくすれば、満面の笑顔になるのだ。
「やだ。絶対あそこ行く。レストラン予約しちゃったんだもん」
 結局こいつは食べ物基準だな、と。俺も笑う。
 レストランの食事はおいしかった。なかなか自宅じゃ出来ないため、外食は大体洋食が多い。普段と異なり、ドレスコードにコース料理はやや緊張するが、それでも食事は幸せになれた。
 帰り道、彼女が俺に言ってきた。
「美味しかったねえ」
「あぁ、だな」
「あの、豚肉のなんかトマトのやつ。あれ美味しかった。今度作って!」
「内臓系は処理が大変なんだよなぁ……」
 そういいつつも、俺は食べたところの味はなるべく覚えるようにしている。今日はさすがにやらなかったけれど、アットホームな店なんかでは、調理担当のおじさんと会話するくらいだ。
「あ、でもね」
 ふいに、彼女が俺の腕を抱き寄せた。
「あんたの料理が、一番おいしいよ」


 次の日の朝食は、秋刀魚の塩焼きとわかめの味噌汁、それから納豆と海苔にした。
 味噌汁は彼女が作ってくれた。
「やっぱり和食が一番だ」
 いただきますの挨拶をしてから、彼女が白米を食べ始める。魚がある日は倍増だ。最近たるんできた彼女の腰回りを想像しながら、僕はふと、味噌汁をすすった。
「あのさ」
「なにー?」
 秋刀魚の骨を取りながら、いつも通りの彼女。当然、こっちを見ようともしない。俺の心臓が、らしくなく鼓動する。
「俺の飯、好きか?」
「今さら何言ってるの? 好きだよ。昨日の洋食で焦っちゃった?」
「じゃあ、一生一緒にご飯しようか」
 さらりと、何気ない俺の発言に、彼女の動きが確かに停止する。ゆっくりと顔をあげて――その間抜けな表情に、俺は思わず吹き出しそうになった。
 気が抜けたので、納豆のパッケージをあける。静かな部屋に、かき混ぜる音だけが響く。
「そんなこと言ったら、あたし、ずっと痩せられないじゃん。食欲止められないもん」
 俺とは対照的に、彼女の箸は止まっていた。
 ついでに、泣いていた。

   美味しいものを、ずっと一緒に食べよう。食欲の秋は、もう、すぐそこ。